文化庁の日本語調査についての冷泉彰彦氏のコラムがひどすぎる

初めに言っておくと、こういう記事は華麗にスルーするのがスマートな現代人である。しかしあまりに突っ込みどころが多い。自分のスルー力*1不足を恥じるばかりである。

そもそも世論の声を聞いておきながら、発表するときには一々「誤った日本語が使われている」という偉そうな言い方をするという、何ともお役所的な姿勢がまず鼻につきます。中でも気になるのは、結果的に「日本語の変化」についての報道が漠然と「乱れている」とか「本来の正しい日本語が失われている」というネガティブなニュアンスばかりになることです。

文化庁の発表そのものについて言っているのか、報道について言っているのか判然としないが、少なくとも文化庁の発表には少しも偉そうなところはない。報道も「ネガティブなニュアンスばかり」とはいえない*2。ソースを見ないで書いているとしか思えない。冷泉氏は一体何が鼻についているのか。

(ちなみに、報道では「誤用」という言葉が使われることがあるが、これも文化庁の発表にはない。……と言いたいところだが、「誤りとされて」いる、という言い方はあったりする。)

例えば、「ら抜き言葉」にしても、「受身形(自分のケーキを人に食べられた)」と「可能形(甘くないので私にも食べれる)」が分化してゆくというのは、文法的にも明晰性の確保になるわけです。そこを未練たらしく「誤った表現が10%も増えた」などとブツブツ言う、そのくせ世論の動向をコッソリ観察して、ある時点で「お墨付きを出そう」などというのですから、全くもって文化庁という役所は「姑息」と言わざるを得ません。いやこの場合は「卑怯」というべきでしょう。

だから、未練たらしく「誤った表現が10%も増えた」などと言ってはいないし、コッソリではなく堂々と観察しているし、「ある時点で「お墨付きを出そう」などという」などというのは冷泉氏の妄想に過ぎない。卑怯なのはソースを読まずに批判する冷泉氏の方である。そもそも文化庁がお墨付きを出しても話し言葉に影響が出ることは考えにくい。
以下、枝葉末節のことに執拗な突っ込みを入れる。

[...]日本語の場合に「寒い」という形容詞は、それだけでは文にならないのです。英語ですと、本当に寒くて口を開くのも面倒な場合は、"Cold!" "Yeah, cold!" なんていう会話も可能ですが、日本語の場合は無理なわけで、[...]

「日本語では「寒い」だけで文になるが、英語では"It's cold."と主語Itが必要になる」というのなら分かるが、逆だという。本当だろうか。英語で"Cold!"と言えるかどうかは措くとしても、たとえば暗いところから急に明るいところに出たとき「まぶしい!」とだけ言うのは文としておかしいということだろうか。私はおかしいとは思わないし実例だってある。

しかし小石川に住んでいる内田はなかなかやって来る様子も見せなかった。
「痛い痛い痛い……痛い」
葉子が前後を忘れわれを忘れて、魂をしぼり出すようにこううめく悲しげな叫び声は、[...]

有島武郎 或る女(後編) 青空文庫

次、

では、キチンとした文にするとすると、そもそも「寒い」というのは強い形容詞であって、[...]

強い形容詞というのが意味不明である。「強い」は強い形容詞だろうか? 「弱い」は?

特に「外気へ出たら寒かった」というような場合は、所与の状態から来る期待感に対して意外性のニュアンスを持った表現になるわけです。ですから「ですます」であっても「だ、である」であっても「ね」とか「よ」というような何らかの助詞で支えないとダメなのです。助詞がないと、意外感の行き先がないことになり、聞き手との関係性が危機に陥るからです。

「意外性のニュアンスを持っ」ているから、「助詞で支えないとダメ」という論理展開が意味不明、かつ、「助詞がないと、意外感の行き先がない」という論理展開が意味不明である。
数万歩ほど譲って本文を好意的に要約すると、

  • 「寒い!」はそれだけでは文にならない→使うには「ね」や「よ」を付けないといけない→しかし終助詞を付けると関係性がネバネバする→「寒っ」という「「周囲に聞かれることを予め期待した上での独り言」的な表現」が好まれるようになる

となる。しかし、これでもまだダメである。なぜなら、「寒い!」を文として認めないのに「寒っ」を文として認める理由が述べられていないからである。

助詞から自由になることで複雑な文脈との調整が省略できるので、瞬間的な印象を吐き出すのにも効率的なのです。

であれば、同じく助詞から自由な「寒い!」もOKのはずである。かくして、この「寒っ」の考察は全体が無意味である。
「姑息」についてはよく分かりません。
ラ抜きについてのこれも無意味である。

ちなみに、報道の中には「考えれる」という表現が流行するのも時間の問題というものもありました。ですが「考える」という動詞は主語の自由意志が反映するので受身形はありません。ということは「考えられる」という形は受身形と可能形を兼用はしていないので、「ら抜き」に発展してゆく必然性は弱く、その変化はスローになるのではと思われます。

「主語の自由意志が反映するので受身形はありません」という理屈がよくわからないし、実際受身形はある。たとえば「ネス湖にはネッシーがいると考えられていた」の「考えられていた」はどう見ても受身形である。
ところで「考えられる」が「考えれる」になりにくいのはちょっと面白くて、理由がよく分からない。ほかに私の見つけた例だと「信じられない」も「信じれない」にはなりにくい。語幹の長い動詞だとラが抜けにくいのではないかと思う。ついでながら、ラ抜きについての文化庁の調査は例文があまり良くない。「朝5時に来られますか/朝5時に来れますか」は、何の状況設定もない場合、「来られる」が尊敬の意味にもとれてしまう。「今年は初日の出が見られた/今年は初日の出が見れた」は、「見られる」が自発ともとれる*3。私なら差し替えを命じる。文化庁しっかりしてください。

*1:するーりょくと読む。

*2:朝日新聞(魚拓)、毎日新聞(魚拓)、東京新聞(魚拓)。

*3:「見られる」「聞かれる」の可能は自発と紙一重である。