映画で最後に作ってるとこってどの部分だ/作品における思考の濃淡

たとえば映画の制作みたいなものでも,最終的な締め切りというのがあるわけだ。何月何日公開,というからにはその何月何日(の何時)に各映画館で上映できるようになっていなければならない。当然のことである。そういうとき,制作スタッフが最後の追い込みでやってるのはどんな作業だろう。ちょっと想像がつかない。
エンドロールではないだろうな。あれはそんなにせっぱ詰まってやることではない。だとしたらなんだ,……,というか映画の作り方自体よくわからないんだけど。ここの大事な場面の切り替わり,いまひとつパッとしないなあ,とか,そういう最後まで残してきてしまった,しばしば些末なあれやこれやをうんうんうなって考えたり,悔しい思いをしながらボツにしたりしているのかもしれない。
あらゆる作品は,作る側にしてみれば全体の中にそうとう濃淡がある。難渋して何度もこねては潰し,やっと満足いったというようなところもあれば,するっとできてそれ以降気にもとめないまま完成を迎える部分もある。最後までうまくできなくて,かといって未完で放っておくわけにもいかず,しかたなくお茶を濁した結果 はたから見ると凡庸な形になってしまう部分もある。個人的なことをいうと,去年書いた修士論文でもいやと言うほど体感した。5章構成だったが,本文をまともに書き始めた8月以降で考えた場合,じつに力の8割は第3章に注がれているのだった。

そういう思考の濃淡それ自体はまったく作品の一部ではないけれど,ふつう作者にしか知り得ないこういう濃淡をのぞき見したいと思うことがときどきある。先日の「文化庁メディア芸術祭」に出展されていた「タイプトレース道」((筆者が執筆(タイピング)に時間をかけた部分が,そのかかった時間ぶんだけポイントの大きい文字になっている。[http://typetrace.jp/:title=TypeTrace.jp],[http://plaza.bunka.go.jp/museum/oste/vol7/:title=One Step to Exhibition Vol.7 文学の触覚 | 文化庁メディア芸術プラザ],[http://plaza.bunka.go.jp/festival/2008/recommend/win/art/art_inst09.html:title=審査委員会推薦作品 : アート部門 | 平成20年度(第12回)文化庁メディア芸術祭]))は内容と思考の濃淡が抱き合わせで提供されている作品(あるいは,のぞき見を追体験型のコンテンツに仕立てたメタ的な作品)とみることができる。

制作秘話を語る映画監督は,「苦労したあげくお茶を濁しちゃったところ」も紹介したら面白いと思う。「ここ実は適当です」みたいな。無理だろうなあ。